はぴはぴかむかむ

濵田崇裕さんのあれこれとか。X→@hamataka1219

2023年の記念日に考える

今日という日は私にとっての大切な記念日です。 

一年に一回巡ってくる、記念日。

濵田崇裕という人のファンになると決めてそれを周りの友達にも宣言した、記念日。 

9月27日という日は私の中では12月19日の濵田崇裕バースデー以上に重要な日で、毎年この日を迎えるたびに「これからも濵田担として精一杯彼の応援をしよう!」と誓いを新たにするのですが、今年ほど足元がぐらぐらする感覚の中でやってくる記念日は久しぶりじゃないでしょうか。 

 

2014年ですらここまで不安ではなかった、だって衣装も立ち位置も歌割りも前の4人とはあからさまに差別されて毎日悔しくて仕方なかったけどそれでも「曲がりなりにもCDデビューしたジャニーズWESTの一員なんだから5年10年頑張ればきっと道は拓けるはずだ」と信じることができたから。 

そうだなぁ…記憶を辿ってみると、2011年にBOYSが実質的に空中分解して濵田さんが所属ユニットを失っていたあの頃と同じくらいの心許なさかもしれない。 

2011年はもしかすると濵田さんが私の目に届く範囲から消えちゃうんじゃないかという不安があった。 

そして2023年の今年は濵田さんがやっと掴んだジャニーズWESTという確固たる所属場所が外圧によって激しく攻撃されていることへの不安がある。 

この2つの不安は全く別種のようでいて、その実似通っていると思います。 

“大好きな人の居場所が脅かされることによって、私というファンの居場所までも脅かされる”ことへの不安ですから。 

なんてエゴイスティック! 

今現在毎日繰り返されている悪意ある報道と部外者からの中傷が彼らに届いていないはずなんてなくて、そんな状況下でもメンバーは当たり前のように笑って私たちの前に立ってくれている、それをありがたがるんじゃなくて自分勝手に不安になっておろおろするだなんて害悪ファンでしかないんじゃないのか、私自身もそう思ってしまう。

思ってしまうんだけど、自分の心ですら自分の力ではどうすることもできなくて。

そんな時に縋るのはあのMyojoの10000字インタビューなんです。 

 

BOYSが解散状態になった時の想い出話。 

『ファンのコに変に気をつかわれて、やさしくされたんですね。“私は、ついてくからね!”みたいな』 

『いやいやいや、誰もやめる言ってへんし、やる気満々やし(笑)』 

『ありがたかったんです。でも、気をつかわせてしまった』 

 

さっき本棚から2014年のMyojoを引っぱり出して濵田さんの10000字を読み返してたんだけど、このくだりを読んで涙がこぼれそうになりました。 

自分自身は何も変わっていないのに周りが動揺してあらぬ噂を流される、これがあまりにも今の状況と酷似していて。 

でも過去に濵田さんははっきりと言っている、さっき書いたBOYSが解散状態になった時の想い出話のラストはこう締めくくられているんです。 

『だからデビューして、安心してもらいたいなって』 

自分のことで手いっぱいになったとしても誰も責めないのに自分のことよりもファンを思いやる、ファンのためにつらくても前を向いてよりよい未来を掴もうとする、それが濵田崇裕という人なんだよね。 

2011年のあの時も、2023年の今も、そこはきっと変わっていないと思います。 

 

私がやきもきして「もしグループ名が変わったらどうしよう」「事務所から出ていったらどうしよう」「その時には私もついていかなきゃ」なんて先回りして考えることを濵田さんは望んでいないはず。 

だって彼は、ファンを包み込んで守ってあげたい人だから。 

それなら私も正直に心の赴くまま動いてもいいよね。 

こうしてほしい、こうなってほしいと私は叫びます。 

叫んだところで一人のファンの力で何か事が動くことなんてなくて、世の中の大きな力と、事務所とそのスタッフとそして所属タレントの考えによって全てが決まるのだけれど。 

決まったことの中から最善策を選び取りファンを安心させるために濵田さんがその策を示してくれるなら従う、ただそれだけでいいんだなと思います。 

 

濵田さんは絶対にファンを見捨てたりなんてしない人。

あの日ふと濵田さんに目を留めて「この子ならきっとずっと先まで応援し続けられるんじゃない?」と濵田さんの奥底にある本質みたいなものを見極めてファンになった過去の私は間違ってなかったんだなぁ。

そんなことをつらつら考えている、2023年の記念日です。 

『ザ・ビューティフル・ゲーム』@梅田芸術劇場 雑感

勝手知ったる梅田芸術劇場での久しぶりの観劇。

自担がJr.時代だった頃から足繁く通ったこの場所に、まさか自担と同じグループに所属するメンバーの主演舞台を観に来ることになるだなんて夢にも思ってなかったなあ。

CDデビューから年月を重ねて心境の変化があったからこそ私は今この道を歩いているんだなぁ…なんてちょっぴりセンチメンタルな気分になりながら茶屋町へと歩いていきました。

 

『ザ・ビューティフル・ゲーム』はイギリス領北アイルランドの独立を目指すIRAが勢力を増すベルファストが舞台。

極東の島国である日本で生活しているとヨーロッパでの出来事はあまりにも遠くて、イギリスやフランス、ドイツやベルギーなどという国に憧れの感情以外は抱かないんだけど。

この物語の歴史的背景を少しでも知っておいたほうが楽しめるよね、折角お高いチケット代を払うんだしね、と観劇前の予習をしてみると。

ナチス・ドイツに関する知識は少しはあったものの、イギリス…というよりイングランドが併合したアイルランドに対して行った行為やベルギーが植民地としていたコンゴに対して行った弾圧のすざまじさを知ってゾッとすることになります。

IRA暫定派(アイルランド共和軍暫定派)の存在は私の年齢が年齢なので1990年代のイングランドでの自爆テロの記憶がうっすら残っていたものの、Wikipediaを読む程度でもイングランドアイルランドの宗教的対立に端を発する問題の根深さに黙り込むしかなくて。

劇場でミュージカルを観る時間そのもの以外でも、このようにあれこれ調べることによって知的好奇心を満たすことができる“観劇”という体験はやはり素晴らしいですよね。

コロナ禍によりエンタメが徹底的に攻撃された数年間があり、わざわざ劇場やコンサートホールへ足を運ぶよりコスパもタイパもいい動画配信サービスなどを自宅で楽しむという社会情勢の変化もありますが、演劇を摂取することでしか味わえない経験が絶対にあるので演劇という文化が廃れてほしくないなと私は思います。

 

今回の小瀧望主演版『ザ・ビューティフル・ゲーム』キャスト、私程度の「ご贔屓の出演者がいる場合だけ劇場に足を運ぶ」というお茶の間ファンでも知っているのは主演の小瀧望くんと益岡徹さん、あとは木下晴香さんと東啓介さんくらいで、言葉はとても悪いんですが「客寄せパンダのミュージカル未経験アイドルが主演、その周りを固めるのは動員力があまりなさそうな無名キャストばかりだけどそれで大丈夫か?成立するのか?」という声があったのが事実です。

ただ観劇を終えた私は、キャストの皆さんの歌やダンスや演技に魅了され頭の中を劇中歌が流れています。

北アイルランド問題なんてほんのちょっとしか知らなかったけれど、ミュージカルの幕が開くとどんどん物語に引き込まれ「えっこの先どうなるの?」と食い入るように観て、物語の最後まで一瞬のように感じました。

出演者さんたちの演技とか歌のレベルが高いか低いか、専門的なことは素人の私にはわかりません。

でも私にとっては心に残るいいミュージカルだった。

きっとそれだけで充分だし、それが答えなのではないでしょうか。

 

私は主演の小瀧望くん目当てで梅芸に足を運んだ、所謂「作品ではなく出演者につくファン」です。

その私に、小瀧くんの演技や歌が上手かったかと聞かれたなら。

周りのキャストさんたちは、事前にミュージカルオタクのお友達が「今の日本の若手ミュージカル俳優で、スケジュールが空いている中から歌のスキルが高い人を順番に取っていったって感じのキャストだわ」と言ってたのも頷ける歌のレベルの高さで、実績があるその人たちと比較すると…そりゃ…と返事するしかないかなと。

だけど彼は本格的なミュージカルには初挑戦、それにも関わらずあれだけ身体を使ったミュージカルの発声ができて、日生劇場梅田芸術劇場といった日本でもトップレベルに広い劇場の奥まで感情を乗せた台詞を届けて、何より彼の生まれもった華やかさで彼の登場シーンでは彼に目を奪われる。

間違いなく小瀧望が主役の舞台!

ジャニーズWESTの末っ子、本当に恐ろしい子です。

「小瀧一人で日生も梅芸も埋めるなんてどうせ無理」「所詮はジャニーズのアイドル主演の舞台だし」なんて陰口を叩かれ、なのにジャニーズWESTの人気部分を担うエースとして失敗は許されないというプレッシャーに打ち勝って、誰一人コロナに感染することもなく全公演を上演して無事に千穐楽まで走り抜けた。

座長としての今回の経験が加わることで、ますます小瀧のという人は役者として大きくなるよね。

小瀧望が背負うものそして否応なく背負わされるものはとんでもなく重くて、この先の彼の芸能人生はきっと大変なものになってしまうのだろうけど、彼は独りぼっちじゃないのが救いです。

あの広い梅田芸術劇場小瀧望がジョンとして命を燃やす姿を見て「この人は大丈夫だろうか…心身ともに折れちゃわないだろうか…」と心配したけれど、立派に38公演をやり遂げた。

それを可能としたのは彼には“ジャニーズWEST”という居場所があるからで、ジャニーズWESTの仲間という存在が彼の重圧を軽減してくれたからでしょう。

ジャニーズWESTが彼を笑顔でいさせてくれると私は信じています。

目の前にそびえる高い山、一面に広がる大海原

ジャニーズWESTの濵田崇裕さん桐山照史さん、略してきりはまジャニーズ入所20周年yearも今日で終わりということで。

私が勝手な分析blogを2022年ラストに書いてみようかなと思います。

 

まず、皆さんご存知のジャニーズWEST入所日一覧は以下の通り。

 

濵田崇裕→2002年7月13日

桐山照史→2002年7月13日

中間淳太→2003年2月10日(関西Jr.の前に台湾Jr.としての活動期間あり)

神山智洋→2004年2月21日

藤井流星→2006年10月8日

重岡大毅→2006年10月8日

小瀧望→2008年7月17日

 

よく『ジャニーズWESTは兄組であるB.A.D.と濵田、そして弟組である7WESTのメンバーが合体したグループ』だと語られるのですが。

これは正解であると同時に違った角度から見ると間違っているとも言えるんですよね。

私がジャニーズWESTの成り立ちを説明するなら『関ジャニ∞が関西にいた時に入所した濵田・桐山・中間・神山と、関ジャニ∞が上京した後に入所した藤井・重岡・小瀧が上下の壁を越えて集まったグループ』です。

 

ジャニーズWESTの直属の先輩にあたる関ジャニ∞がCDデビューしたのは2004年8月25日、そして関ジャニ∞主演の松竹座クリパが2005年冬・松竹座サマスペが2006年夏まで。

この関ジャニ∞の経歴をジャニーズWESTの入所日一覧と併せて見たなら私の仮説に「あぁ、なるほど」と納得してもらえるのではないでしょうか。

神ちゃん入所日と、しげりゅせ入所日の間の2年間に関ジャニ∞は東京に活動拠点を移した点に注目してみてください。

(実際に関ジャニ∞メンバーが東京に居を構えたのがいつか、という細かい話は割愛します。私たちファンの目に映る事象としての関ジャニ∞上京時期の話です)

 

関ジャニ∞メンバーは全員がジャニーズJr.黄金期を経験し、その後の関西ジャニーズJr.冬の時代…KYO TO KYOが終わってしまってからはそれこそ関ジュの生存確認ができるのは先輩デビュー組コンサートが大阪城ホールで開催される夏休みと冬休み時期のみという厳しい時代…を生き抜き、天国と地獄を味わいながらその後荒れ地どころか凍土だった関西の地にジャニーズアイドル文化を根付かせた偉大なグループです。

関ジュの最大の功労者は関ジャニ∞、この事実はいつまで経っても変わらない。

そんなものすごい先輩たちが、必死で凍った土を耕して松竹座という場所を畑にしてそこに種を蒔き、その種が芽吹いて東京へと進出するまでにかかった期間が、4年。

その4年の間に入所したのが、濵田・桐山・中間・神山の4人です。

『のしあがっちゃるけん』の関ジャニ∞イズムを肌感で知っている世代、関ジュのギラギラを受け継いだ正当な後継者たちだと言えるでしょう。

ただ、関ジャニ∞という存在が目の前にそびえる高い山のように感じられ、自分たちの存在価値を見いだせないままもがいていたのかもしれません。

 

2006年のサマスペを最後に関ジャニ∞は松竹座公演をしなくなり、サマスペとクリパを継承したのはB.A.D.とBOYS、神ちゃんがいた初期のTOP Kidsとなります。

そこからの松竹座チケットが売れない数年間はさぞかしキツかったことでしょう。

関ジャニ∞が抜けた関ジュをどうすれば立て直せるのか』を試行錯誤しながら考え続けたのではないでしょうか。

ちょうどその頃に入所してきたのが、藤井・重岡・小瀧の3人です。

彼らが入所したことにより人材が揃い、中山優馬 w/7 WESTが結成されたのは2008年夏。

(Hey! Say! 7 WESTもありましたがそのメンバーは流動的だったので省きます)

まだ入所してから日が浅く圧倒的に経験不足なメンバーが中心となったユニットにも、否応なく関ジュの屋台骨を支える責任が負わされて即座に結果を求められることとなりました。

右往左往する若いユニットを、まだ自分たちもJr.ユニットでしかない先輩Jr.がフォローすることも求められました。

その時期を言い表すなら、先に何も見えない一面に広がる大海原の向こうに目を凝らしていた暗中模索期でしょうか。

 

目の前にそびえる関ジャニ∞という高い山に悩んだ4人と、関ジャニ∞がいなくなって一面に広がる大海原に怯えた3人がその後出逢って、仲間になった。

手と手を繋いで7人で漕ぎ出そうとしたその時に大きな波をかぶって、散り散りバラバラになりかけてもその手を離すことはなかった。

そして今。

ジャニーズWESTの成り立ちを振り返りながら、彼らが存在し私たちの目の前で笑ってくれることのありがたさを噛み締めたいと思います。

流れることなく積み重なった20年の歳月を

 数年ぶりに開催された2002年の関西ジャニーズJr.大規模オーディション。 

そこで選ばれた少年たちを、後にある種の伝説となる舞台…Jr.黄金期が去り、まだ関ジャニ∞すら結成されておらず、事務所からも大多数のジャニーズファンからも完全に忘れ去られた存在となりその存続すら危ぶまれていた関ジュが、大阪松竹座で上演した『ANOTHER』で初めて目にした時。 

 

きらきらの輝きを放ってる子たちが入ってきた! 

 

私はこう思ったのでした。 

 

2002年なんて言うと最近関ジュを好きになった人からするときっと遠い昔の話。 

でも私の中では手を伸ばせばすぐに掴める、そんな想い出。 

色褪せることのない2002年の記憶の真ん中で笑っているのは、当時13歳だった濵田崇裕くんと12歳だった桐山照史くんの2人です。 

 

まっさらな白いシーツのような少年たちでした。 

頂点もどん底も見た既存の関ジュ、つまりそれは村上さんや横山さんといった後の∞メンバーですが、まだ若くして崖っぷちの立場に立たされた彼らの目の奥にあった暗い闘志のようなものとは全く無縁の。 

ひたすら明るく、まぶしく、そして繊細なガラス細工のような少年たちでした。 

 

そんな彼らの行く末などその時は知らず、ただただ光に溢れた少年たちの集団に惹き付けられて。 

そこから20年が経過した今日。 

私は、きらきらだった彼らの中の一人を応援し続けています。 

1年が経ち、2年3年が経ち、5年そして10年が経ち。 

ひと言では到底言い表せない、様々な出来事が関ジュには起こって。 

彼らが入所してから12年が経った2014年にジャニーズWESTが結成されてCDデビュー、そしてそこから早8年。 

2022年7月13日、今日で2002年のオーディ生たちは20周年を迎えました。 

 

流れることなく積み重なった20年の歳月を抱きしめながら。 

濵田崇裕くん、桐山照史くんに伝えたいのはこの言葉。

「20年間、ジャニーズに在籍してくれて、私の目の前から消えないでいてくれて、本当にありがとう」 

 

感謝ばかりの20年、そして次は奇跡みたいな25年がやって来ることを信じています。

関西ジャニーズJr. 2002年入所組というもの

2002年に開催された関西ジャニーズJr.のオーディションのことを知っている現役ジャニーズファンなんてほんの一握りしかいなくて、アイドルファンというものの性質を考えるとそれが当たり前で。
もしかしたら目まぐるしい毎日を送っている本人たちにとっても遥か遠い記憶の1ページに記された出来事で、そのページの文字自体が薄くなってしまっているかもしれないけれど。
私の記憶の彼らはくっきりと色鮮やかに、未だに少年の顔のままでニコニコと笑っています。

私にとって2002年組関ジュとの出会いはきっと運命だったんでしょう。

言わずと知れた濵田崇裕・桐山照史は後のジャニーズWESTメンバー。
その他にも関ジュの振付師になった真鳥がいて、薫太がいて。
中本進ちゃんに青木の龍ちゃん、学くんにいむちゃんに土居兄弟、世奈やたくやくん、そして名前を出せないあの子。
他に誰がいたっけなぁ。
今でも何人もの名前を空で言えるくらいに大好きだった2002年組の彼等。

KYO TO KYOで毎日踊っていたメンバーたちが本格始動させた関西ジャニーズJr.というものがあり、関ジャニ∞からジャニーズWEST、なにわ男子、そしてAぇ!groupやLilかんさいと脈々と受け継がれていく関西ジャニーズの系譜でその大きな転換点となったのは2002年の松竹座『ANOTHER&関ジャニスペシャルコンサート』で。
そのANOTHERに出演するために数年ぶりに行われた大規模オーディションの合格者=関西ジャニーズJr.の2002年入所組。
毎年オーディションが開催されるようになり大きく大きくなった現在の関ジュがあるのは、個性豊かで実力を内に秘めたメンバー揃いだった2002年組の存在抜きには語れないでしょう。

そして、そんな彼らに出会って、魅せられて。
この子たちを応援する、今度こそデビューを見届ける。
そう思った私の記念日が、そう、9月27日。

2021年の今日も私は関西ジャニーズJr. 2002年入所組が、そして濵田崇裕が、大好きです。

あの子に、想いを馳せて。

インターネットの海をふわふわと漂っていると思ってもみなかった出会いがあります。

 

むかしむかしあるところに、と語り始めなきゃならないくらいの遠い昔の出来事。

いや、私の中では昔の出来事なんかじゃなく色鮮やかな記憶として息づいているのだけれど。

ジャニーズWESTのファンや関西ジャニーズJr.のファンの大多数が実際にその姿を見たことがなく、今でも一連のあれこれを覚えているのはごく少数のWEST担と元関ジュ担で今は他の誰かを応援しているという人、それに加えて松竹座時代からずっと関ジャニ∞を見続けてきた古参のeighterくらいでしょうか。

だから、もう10年近くも前にいなくなってしまった子の話はごく限られた身近な友達としか共有できないものと思い込んでいました。

 

そんなある日手元のスマホの着信音が鳴り、飛んできた一通のマシュマロ。

内容を見て驚きました。

マシュマロは匿名のメッセージを受け取るサービスなので、当たり前ですが見ず知らずの方からのメッセージが突然届きます。

スマホに目を落とすと、私に投げられたマシュマロは自担の相方…今はもう名前を呼べないあの子のファンをしていた方からのものでした。

 

そこには、あの子が消えたことが辛くてジャニーズからフェードアウトしていたこと、『証拠』をきっかけにWESTに再度目を向けて松竹座やダブトラ配信なども観たことが丁寧な文章で綴られていました。

その方からメッセージを頂けたことが心の底から嬉しかったです。

だって、あの子のファンだった私の古い知り合いたちは皆関ジュから離れていってしまったから。

春夏秋冬と季節が巡るごとに待ち合わせなんてしなくても顔を合わせていた人たち、直接の知り合いではないから名前なんて知らないけれど「あぁ、あの人はよく会場で見かけるあの子のファンだ」と顔を覚えている人たちも一切見かけることがなくなって。

関ジュ時代の濵田さんの歴史を辿る際にも存在自体が抹消され、そのせいでろくに古い映像すら出せない自担の昔の足跡をあの子も含めた思い出として語ることができる相手はろくにいなくなってしまったのでした。

恋涙』や『青の時代』『Eden』などの先輩曲を二人が誇る美しいユニゾンで歌い上げていたこと、『さよなら~二人の空~』や『Battle』『Love or guilty』『GIVE ME』『STAY GOLD』といった数々のBOYSオリジナル曲を引っさげて華やかにパフォーマンスしていたこと、それを知る人はいてもBOYSというユニットの担当をしていた当事者同士として語ることはできなくて。

B.A.D.担や7WEST担だった人たちが過去を大っぴらに語るのをただただ羨ましく思っていた私にとって、きっとあの頃ステージに立つBOYSを熱い眼差しで見つめながら彼らがデビューする日を思い描いていたであろう方からのメッセージは涙が出るくらいに嬉しいものでした。

 

愛くるしい子犬みたいなジャニーズ顔で歌もダンスも上手くて、入所当時からプッシュされて、誰よりも高いプライドを持っていた子でした。

容姿にも実力にも恵まれたその子に対抗できるのは、同じ年に入所した新人Jr.の中では今振付師となっている子くらいのもので、その子たちのために入所後すぐにBOYSという5人ユニットができて。

その事実が悔しくてたまらず、無所Jr.の劣等感を打ち消すために「俺もユニット組になりたい!」と叫びながら死に物狂いで前へ前へとがむしゃらに進み、自分のためのユニ結成を実現させたのが照史くんでした。

関西のトップは名前を呼べないあの子と照史くんの二人で、B.A.D.とBOYSは常にライバルとして争っていたけれどその争いはある意味二人の代理戦争のようなもので。

まるで水と油の二人、そのどちらがデビューの夢を掴むのかと私は固唾を呑んで見守っていたのです。

私が長く応援している自担が唯一背中を預けてもいいくらいに信じていた、こいつとこの先一緒に戦っていくんだと名前を呼べない子のことを語っていた。

自担が片翼だと認める相方だもの、自担は私にとって絶対的な存在だけれどそれと同じくらいに大切なのはBOYSと相方だから、私もずっと相方の味方でいるんだ。

そんなことを大真面目に考えていました。

あの子がいなくなったあの日までは。

 

今思えば、高いプライドと表裏一体で弱いところを持ち合わせた子だったんだと思います。

遠い未来まであの子の味方でいると決めていた私の想いは、あの子がいなくなったことで行き場を失って彷徨うしかなかった。

だからその弱さを受け入れることなんて私にはできなかったのです。

恨んで恨んで、一生あの子のことは許してやらないと周りの人たちに告げました。

だって、濵田担の私があの子のことを許してしまったら一体誰が濵田さんの代わりに怒るんでしょうか。

あの子を許さない権利があるのは濵田担だけなんだから。

当の濵田さんはあの子に何もしてやれなかったと自分を責めることしかしないに決まってる。

だったら、そんな濵田さんの分まであの子を許さないでいなくちゃならない。

それだけではなく私や私ではない濵田担たちがあの子のことを許さない限りは、影も形も消えてなくなったBOYSというユニットは濵田担の中に存在し続けるじゃないですか。

あと、もう一つ。

あの子が必死で隠していた弱い部分に気付いてあの子の肩の荷を軽くしてあげられなかった、勝手にあの子に強さを望んで結果的にあんなことにさせてしまった罪がBOYS担にはあると悔やんでいるから。

だから私は今でも許していません。

私が濵田さんの応援を続ける限りは許したりなんかはしないでしょう。

濵田さんが芸能界でどれほど輝いたとしても、そんな濵田さんの相方だった子とBOYSというユニットを守れなかった罪をあの頃のファンは背負い続けなければならないのですから。

勿論、私も。

 

今でも濵田さんの隣にはあの子が一番似合っていたと思います。

立ち姿もダンスもトークも、そして何より歌った時にハーモニーがピタリと合わさるその相性の良さはまさに奇跡的で。

それらが忘れられなくて、あの子が優しい顔で“はまちゃん”と自担を呼ぶ時の独特のイントネーションが今でも耳許でリフレインするのです。

だけど濵田さんはジャニーズWESTのメンバーとなり、WESTはあの子が去ってから独りぼっちだった濵田さんがやっと手にした居場所で、WESTメンバーは濵田さんにとって唯一無二の存在となりました。

私もジャニーズWESTを愛していて、そう思えるようになったのはメンバーがいてくれたからこそです。

ジャニーズWESTが大空にかける七色の虹を私が地上から見上げる日が早く来ますように。

今の私は、それを待ち望むジャニーズWEST担です。

 

マシュマロを私に投げた方はまた何かの機会にジャニーズWESTを見て下さることがあるでしょうか。

WESTが歌う『証拠』を耳にした時、あの子とあの子の隣に立っていた濵田さんのことを思い出してBOYSを応援したことも思い出して胸があたたかくなればいいなぁ。

勝手ですけれど、そう思わせて下さい。

あの子を忘れることはないけれど、そう思わせて下さい。

むかしむかしBOYS担だった、BOYSが好きで好きでたまらなかった私からの、お願いごとです。

紫色のペンライトの海を。

2020年12月19日。

濵田崇裕さん、32回目のお誕生日です。

 

ジャニーズWEST LIVE TOUR 2020 W trouble、新型コロナウイルスのせいで当初の日程から延期されての振替。

12月19日はマリンメッセ福岡での公演が予定されていました。

「えっ、濵田さんの誕生日を彼と同じ空間で過ごしながらお祝いできるの?」

濵田担であれば、誰だってそれを夢想したんじゃないのかなぁ。

だって、自担の誕生日当日におたおめを言うことができるって、ハッピーバースデーの歌を自担の目の前で歌えるって、ヲタクにとってはそりゃあスペシャルなことだから。

コロナが猛威を振るったことで、ダブトラのステージ上での濵田さん32回目のはぴばパーティー開催は夢と散ってしまいましたが。

 

本当に悔しい。

本当に悲しい。

 

配信LIVEという形だったとは言えダブトラは見事に形になり、その最終公演でジャニーズWESTメンバーとダブトラバックに付いてくれた関ジュくんたちにはっぴーはっぴーなお誕生日祝いをしてもらえたんですけどね。

だけど、それだけじゃ足りないんです。

 

私が濵田さんの姿を見たかったんじゃない。

濵田さんに見せたかったんだ。

会場のそこかしこで揺れる崇裕うちわを。

客席を染め尽くす紫色のペンライトの海を。

 

彼がこれまで歩いてきた道程の険しさについては、ジャニーズWESTのファンであれば大多数の人が知るところだと思います。

 

今はジャニーズWESTという居場所を得て、濵田さんは笑顔でお仕事に励むことができる。

濵田担としてその姿を見られるのはつくづく幸せだと感じます。

自分が幸せだから自担にはもっと幸せになってもらいたい。

そのために、ただのファンでしかない私ができることがあるならば何だってしたい。

ヲタクって業が深いから、そんなことを考えちゃったりしませんか?

 

私ができること、それが“客席に幾多ある紫色のペンライトの中のひとつになる”だったんです。

天井席だって、何なら立見だっていいから紫色のお星様になりたかった。

それを瞳に映した瞬間に目を細めて笑顔になる、もしかしたら感情が溢れ出てやっぱり突然泣き崩れるかもしれない、その濵田さんを見たかったなぁ。

ないものねだりなんですけど、ね。

 

来年こそは絶対に濵田さんにお誕生日おめでとうを伝えることができる、そう信じて…。

今日ははぴばを自分の胸の中だけで呟くことにしましょうか。

 

濵田崇裕さん、お誕生日おめでとうございます。